書くということは、混沌としており曖昧な領域を区分けしていくことなのかもしれない。暗雲が立ち込める世界に、自分なりに無理に光を差し込み、なんとかして見晴らしのいいようにする無駄な試みと言えるのかもしれない。書くことで無理に分けていく。書くことで傷を入れていく。言葉というものは毒性がある。絵を描ける人間になりたかったと思うことがある。絵を描くことは、文章を書くよりも治癒の要素の方が強いのではないだろうか。絵なんて描けないのだが、自分で勝手にそう思っているところがある。もちろん文章を書くことで自分を癒すことは可能だ。実際、書いていると自分が癒されていると感じることはあるが、やはり言葉自体に何か得体のしれない禍々しさというか、毒性みたいなものがある気がする。どうしても言葉は区分けしていくので、書いても書いても不全感が残ることになる。書くことは苦しい。文章を書く動機を促してくるのは、根源的には闘争心なのではないかと思うことがある。闘争心がないと文章は書けないのではないか。絵を描く場合もそうなのだろうか。言語的思考と闘争心はどうも近いところにありそうなのだ。
文章を書きたくなるのは、やはり現実世界でつらいことがあったときだ。日常生活とかで、不意に嫌な経験をしてしまったとき、他人との関りで不協和音が自分の中に割り込んできた時、書きたい欲求に促される。人との関わりが言葉を生む。苦しめてくる他人の存在が、私の言語的思考を活性化させてくる。日々落ち着いた生活をしていると、それほど言葉は必要ないのではないか。言葉のない世界にいきたいと思うこともあるが、それは無理な相談なのだろう。言葉というものをどうして人間が使えるようになったのだろう。人類史の過程において、いつごろからか言葉を覚えるようになったということになっているが、どうもその歴史の中にもうまくあてはめられないと勝手に自分で思っている。言葉と数は何か全然違うように見える。言葉の世界と数の世界はまったく異なる世界に属しており、両世界が人間に干渉してきて、人間は両方とも使えるようになってしまったのかもしれない。数より言葉の方がより本質的だと思いたくなるが、そう考えていいのかはまだよくわからない。そもそも数と数学は違うという考え方もある。